初心者登山家たーぼーの日帰り山歩き

「山登り経験なし」「指導者なし」のたーぼーが、登山を一からスタートしました。登山や観光地巡りの感想と、日々の節約生活などを書いています。

那須高原の紅葉と殺生石を見に行きました。

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殺生石を訪れる

  栃木県の那須高原の紅葉が見頃を向かえているころだと思い、紅葉狩りに行くことにしました。那須高原の見所の中に「九尾狐伝説の殺生石」というところがあります。まずはそこに向かう事としました。

 いつものように愛車のナビを目的地にセットします。殺生石の場所は那須高原の中腹あたりに位置しています。那須の温泉街にある「那須温泉神社」を過ぎてすぐにある、山道の急カーブの正面に突然姿を現します。無料駐車場はありますが、狭いです。車は20台くらいしか止められません。私は駐車場入り口で10分ほど待ちました。駐車場には公衆トイレも完備されています。

 那須の山は赤や黄色や緑で紅葉真っ盛りといった具合でした。その中に、突然木々が全く生えていない、岩場の斜面があります。その中央はうっすらと黄色くなっています。そこが「殺生石」です。

 車のドアを開けたとたん、硫黄の臭いが車内に漂ってきました。車外に出て、山の方を見ると、300m位先の岩場に一つだけ大きく、しめ縄をしてある岩が見えます。駐車場から、その岩まで、岩場が続いています。

 那須の山は見渡す限り緑に囲まれているのに、ここだけが草木が全く生えておらず、異様な景色を作り出しています。そこは「賽の河原」と呼ばれているそうです。「賽の河原」は歩きやすいように木道で整備してあります。

 木道に沿って歩くと、お地蔵様の大群が現れます。10体や20体ではありません。何百体といった単位のお地蔵様です。「千体地蔵」と呼ぶそうです。

 東京都の増上寺にも、お地蔵様がたくさんあり、見たことがある人も多いのではないでしょうか。赤い頭巾をかぶっている姿を思い出すと思います。

 殺生石にあるお地蔵様も同じく赤い頭巾をかぶっています。しかし、その姿に大きな違いがあります。そのお地蔵様たちは全員、顔の前に両手を持ってきて、手を合わせて拝んでいるのです。その一体一体が真剣に何かを拝んでいます。その拝んでいる「手」が大きく、しっかりした「手」になっており、よく見かけるお地蔵様とは、異質の感じを受ける造りになっています。

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 木道を5分ほど歩くと殺生石に到着です。岩の手前5m位のところに柵があり、そこから中に入ることはできません。柵の手前で、しばらく岩を眺めていました。すると、隣に居たおじさんが声をかけてきました。その人は、「殺生石」を管理している行政の方(?)で、定期的に見回りにきているようでした。おじさんの話では、柵の手前からでは見えないが、今、岩の陰でキツネとウサギが、ご臨終しているとの事です。硫化水素ガスという猛毒ガスが発生しており、時折迷い込んだ小動物がそこで息絶えてしまう事があるそうです。柵の内側に入るときはガスマスク着用が義務化されているとの事です。恐るべし「殺生石」。「殺生石」にまつわる伝説も、この現象から想像して語られ始めたのかなと思いました。

 木道を歩いて駐車場に戻る途中に、「盲蛇石」という丸い大きな石がありました。その石についても伝説があり、立て札にその内容が書かれていました。

 その他にも、松尾芭蕉がこの地を訪れ「奥の細道」で次の句を呼んでいるそうです。

      石の香や 夏草赤く 露あつし

 那須の殺生石の地は、それほど広い場所ではありませんが、いくつもの伝説や見所がありました。次回は新緑の季節に訪れたいと思います。

 

殺生石についてまとめました。

  1. 九尾の狐伝説
  2. 千体地蔵
  3. 盲蛇石
  4. 国指定名勝史跡・松尾芭蕉の句

  

九尾の狐伝説

 今から3500年前、中国、インドを荒らしまわった九尾の狐は、やがて(約800年前)、日本に渡って「玉藻の前」という美女に変身し、帝の寵愛を受けるようになりました。

 帝の命を奪い、日本を我が物にしようとした「玉藻の前」でしたが、占い師の阿部泰成によって正体を見破られ、那須野が原に逃げ込んだところを、当時の武将、上聡介広常、三浦介義純によって射ち取られました。

 狐は死んで巨石となり、その怨念は毒気となって、近づくものすべてを殺し続けました。

 時は過ぎ、これを聞いた名僧源翁和尚がこの地を訪ね、持っていた杖で石を一喝すると、石は3つに割れ、1つは会津に、1つは備前へと飛んでいき、残った1つが殺生石だと伝えられています。

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千体地蔵(教傳地獄)の由来

   昔、奥州白河在の五箇村に蓮華寺という寺があり、「教傳」という小坊主がおりました。

 この教傳は生まれながらの悪童で、心配した母がこの寺に預かってもらうことにしたのでした。

 この教傳も28歳になって、前の住職の跡を継ぎ、母と一緒に寺に住むようになりましたが、その行いは少しも直りませんでした。

 1336年のことです。教傳は、2・3人の友人と一緒に、那須温泉に湯治に行くことになりました。その日の事です。母が用意した朝食を、教傳はまだ旅支度も出来ていないのにと悪口を言いながら蹴飛ばして、そのまま出発してしまいました。

 那須温泉について教傳達は、殺生石を見学しようと「賽の河原」付近まで行くと、今まで晴れ渡っていた空が、にわかに掻き曇り、雷鳴が天地を揺るがし、天地から火炎熱湯が噴き出ました。

 連れの友人は一斉に逃げ去りましたが、教傳は一歩も動くことが出来ませんでした。友人が振り向いて見ると「おれは、母の用意したお膳を足蹴りにした天罰をうけ、火の海の地獄に堕ちて行く」と、大声をあげ苦しみもがいております。友人が駆け寄り助けようと引き出しましたが、教傳の腰から下は炭のように焼けただれており、息を引き取ってしまいました。

 それから、教傳の引き込まれたところには、泥流がブツブツと沸いていましたが、いつしか山津波に埋まってしまいました。

 その後、湯本温泉の有志が、1720年に地蔵を建立して供養を行いましたが、親不孝の戒めとして、参拝する者が後を断たなかったということです。なお、現在の地蔵は、昭和57年に建立されたものです。

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盲蛇石

 

 昔、五左エ門という湯守が、長くきびしい冬を越すために、山に薪を採りに行きました。その帰り道、五左エ門がこの殺生河原で一休みしていると、2メートルを超える大きな蛇に出会いました。大きな蛇の目は白く濁り盲の蛇でした。かわいそうに思った五左エ門は、これでは冬を越せないだろうと、蛇のためにススキと小枝で小屋を作ってあげました。

 次の年、蛇のことを忘れなかった五左エ門は、湯殿開きの日に小屋に来て蛇をさがしました。しかし、蛇の姿はどこにもなく、かわりにキラキラと輝く湯の花がありました。盲蛇に対する暖かい気持ちが神に通じ、湯の花のつくり方を教えてくれたのでした。

 その後、湯の花のつくり方は村中に広まり、村人は盲蛇に対する感謝の気持ちを忘れず、蛇の首に似たこの石を盲蛇石と名付け大切にしたのだそうです。

 

国指定名称史跡

  那須岳の湯元温泉にせまる斜面の湯川に沿ったところにあります。

 周囲には火山特有の有毒ガスが噴出しており、近づいた小動物のほとんどが、死んでしまう事から、殺生石と名付けられました。

 

松尾芭蕉の句

  俳人、松尾芭蕉もこの地を訪れ「奥の細道」には、「殺生石は温泉の出づる山陰にあり。石の毒気いまだ滅びず、蜂蝶のたぐひ、真砂の色の見えぬほど重なり死す。」と書き、次の句を詠んでいます。

      石の香や 夏草赤く 露あつし

 殺生石は「奥の細道」の風景地の一群をなすものとして、平成26年3月18日に「国の名勝」に指定されました。

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